2013年9月19日木曜日

精神病棟に入院してみた。

2004年夏、今振り返るとあれが彼の人生の大転機だったのかもしれない。なんせ精神病院(閉鎖病棟)に入院する羽目になったのだから。 

「彼」は巨神兵の友人であり、某特別職国家公務員であり、当時はそれなりに職責のある補職に就いており、まあ忙しくも充実した毎日を送っている様子だった。少なくとも私にはそう見えていた。 
元より勤勉な性格の彼は朝7時には登庁して仕事を開始しそれが夜の10時、11時過ぎまで続くのが常態であった。帰宅すれば深夜12時、土日もクソもあったものではなく起きている間は常に業務のことで頭が一杯の様子だった。 
そんな生活が数ヶ月続いたせいか、いつの間にやら彼は自発的にメンタル系の病院へ通うようになっており、私が気付いたときには向精神薬を週56錠も服用しなければならないほど深刻な状況に陥っていた。原因は彼が持つ業務の量とプレッシャーによるものは誰の目にも明らかであったが、当時の上司含め誰一人として根本的な対策を練ることはせず、つまりそのポストから下ろすなんて処置は一切実施されず、当の本人にもそんな考えは全く無いというか浮かばないようで、極度の消耗戦を続けたまま彼は与えられた椅子に座り続けた。 

ぶっ壊れるまでは。 


あれは2004年の夏の終わりだったと思う。まだ暑かったから。 

彼は自宅アパートで自殺を試みたものの幸い失敗に終わり、翌日職場の人間に発見・保護されそれが故に入院する羽目になった。精神病院と呼ばれるところである。 
(それでも肉体的には数週間の怪我を負った。) 

彼はその施設の中での日常を日記という形で残しており、一読してみたところ一体験談として正直貴重と思い、また(失礼であるが)意外と面白かったので彼の了承を得てここに掲載しようと思う。 


なお当該日記であるが、向精神薬の影響下か文章全般に乱れが散見された。例えば自分の呼称が「私」で書いてあると思ったら次の文では「俺」になっていたり、丁寧な表現とラフな物言いとが一文の中に混在していたり、文の書き方があまりに主観的でその場に居た本人以外には到底理解できないであろう箇所等、それらを含め一部修正して掲載していることをご了承願いたい。一方、スケッチの類は当時の日記をスキャンして掲載しているので現場で本人により描かれた生のものである。 


それではお楽しみください。 





2004年10月5日(火)午後9時18分


本日をもって入院生活開始。キッカケは語るほどのことでもないので割愛。俺が入院に至った経緯などはもうどうでもいい。ここでは普段人に知られることの無い閉鎖病棟/精神病院の内部について焦点を当てて書いていく。 

第3病棟 


俺の他に患者はたった5名。ガラガラだ。静かだ。閉鎖病棟と聞いていたので檻のある部屋に鍵かけて、椅子に縛られている奴が居て、ギャーとかウォーとかの雄叫びでも聞けるのかと思ってワクワクしてたんだけど意外と皆静かで大人しい。ちと寂しいくらいだ。 
でもまぁ、よく見るとやっぱ普通じゃない。他の患者達の様子はもう少し観察を続けてから後日報告するとして、まずはこの病棟の紹介といこう。 
まず、構成として一人一部屋という贅沢な部屋割。部屋のドア自体に鍵は無く、部屋にトイレは備え付けられていないが、ホールを通じて洗面所等は自由に行くことができる。部屋自体の印象は何と言うか明るく軽やかであり、清潔感があり、そんで無駄に広い。10畳くらいはあるんじゃないないかな。 
病棟全体の雰囲気はまったりと和やかで看護師が結構気さくに話しかけてくる。まるでこの空間だけ時間の流れから取り残されている印象だ。
ゆっくりと流れてますねー。 

部屋見取図 





入院手続き 


話は戻るが、本日朝早く入院の直前に受診をした。相手はこれから担当医になる人だ。実際単なる形式上のひとコマだが、一応最後に入院させる必要があるのかどうかを診なければならないらしい。ここでうまく立ち回れば入院自体がキャンセルになる可能性もあったのだろうが、すっかり流れに身を任せてみた。もう人を煩わせるのも煩わされるのにも疲れた。 

5分後、入院への片道切符があっさり出た。行き先は予定通りの第3病棟。閉鎖病棟http://ja.wikipedia.org/wiki/だ。この時点で既に色んな事を体験しちゃっていた俺はもはや何も感じなかった。 

その後、手荷物検査やら何やらを受けた。閉鎖病棟の特性から仕方がないのだが病棟内に私物として持ち込める物には結構制限を受けてしまうのだ。 
T字髭剃りはもちろん、携帯電話の充電器等のいわゆる「コードもの」、パジャマ代わりにと持ち込んだジャージの腰ヒモなんかも首吊りに使える可能性があるという理由でジャージからスルリと抜かれてしまう。(そのおかげで今朝からずっと腰パン生活だぜ。) 
あまりにじゃんじゃん取られるので、皮肉のつもりで「靴下でも首吊りできるよ。取ったら?」と係の看護師にアドバイスしておいた。 



2004年10月6日(水)午後8時33分 


眠い。昨晩は3時間しか寝られなかった。 
朝6時半に起床して、採血されて、朝飯食って、一服していたら(当時は喫煙者)あっというまに9時になった。 
突然、ホール内に聞き覚えのある音楽が流れ出す。ラジオ体操第一である。皆部屋から這いずり出てきては参加しているようなので俺も参加。10年以上していないけど体は覚えているもんだ。はは 楽しい。なんなくこなす。 



2004年10月7日(木)午後9時41分 


最近、ふら付き(突っ立っているだけでバランスが崩れて座ってしまいそうになるので、なんとかバランスを取ろうとして振り子のように振舞う症状)が酷い。最近まで殆ど出なかった症状だ。ここでは俺に限った症状でもないのだが、急に彼らの一員になっちゃったような気がしてなんか恐い。病棟内では皆慣れちまって全くもって見るに珍しくない光景だが、外に出れば明らかに異常だろうな。 
このため午前中はなるだけ寝て過ごすようにした。するとなぜか大分おさまった。ただの睡眠不足だろうか。 


今日、新たに新人が一人入院してきた。一見もの静かな輩なのだが、近づくと口で「プシュー、プシュー」って言ってるのが聞こえる。一日中だ。俺の眼から見てもヤバイ。歳は35〜40くらいかな。 





2004年10月8日(金)午後9時40分 




今日は午前中を寝て過ごし、午後卓球をした。強さは患者・看護師の中では中くらいといったところか。 
一人退院した。ここでは唯一の女性患者。さいなら。再び5名に戻る。 



病衣について 

第3病棟の患者のみが着ることを許された最強かつ最終の衣服。「特段の注意を要する患者」という警告の意味を持つ。 
これを着用していれば、他病棟の看護師からあらゆる意味で一目置かれること間違いなし。事情を知っている他の患者達からは徹底的に避けられること間違いなし。機会があって病棟外の喫煙所に行った時なんかは、海を割ったモーゼの如く周りの患者がみるみる引いて行く。こんな貴重な光景を第一人称の視点で味わうことができるのは閉鎖病棟の患者か総理大臣にでもなったときくらいだろう。 
あんなに満杯だった喫煙所のベンチがガラガラになるんだからこいつは便利な衣服だと前向きに考えてみる。 




2004年10月9日(土)午後9時38分 


本日、ふとしたキッカケから部屋の天井に患者監視用の超小型CCDカメラを発見。天井スピーカーの網目に紛れ込ませて設置されていた。はたから見たら全くわからん。 

発見できた理由はというと、看護師が出入りする看護センターの奥に、カラオケ店で見られる監視用モニターがご丁寧に部屋の数だけ並んでいるのが遠めに確認できたため、これはと思い捜索したのだ。結果ビンゴ。


どうしようかなと少し悩んだ挙句、なぜかカメラを塞いでしまおうということに決めた。手元にはちょうど飲み終わった缶コーヒー。缶に付いているポイントシールを剥がし、ベッドの上に立ち背伸びして天井のレンズにそっと張ってみる。 


5分後、もんのすごい勢いで職員が駆けつけてきた。この人凄い焦ってる… 

「すんません、カメラ焼きついちゃうんですよ〜(汗)それに常に監視してるって訳じゃないんでどうぞ気になさらないでください〜。」とあっさり剥がしやがりました。しかし別に怒られはしなかった。 

まさかと思ったが各部屋隠しカメラ付とは流石は閉鎖病棟。いい影響を与えるわけないので他の患者には黙っておこうと思う。 

しかし5分で駆けつけておいて「常に監視していない」って… 




2004年10月10(日)午後9時36分 


最近ふら付きが収まった。多分夜ちゃんと寝るようになって生活のリズムが大分戻ってきたからだろう。病棟備え付けのマンガも面白そうなものは殆ど読み尽くしてしまって残りはつまんないものしか残ってない。 

GTO、七夕のなんとか、稲中、ジパング、カバチタレ、なにわ金融道は全て読み尽くした。 




2004年10月11日(月)午後8時40分 



薬の時間 


飲み薬は各人毎必要な量を決まった時間に投与される。患者によっては1日4回、朝・昼・夜及び就寝前。俺は朝と夜の2回だけ、それも1錠ずつと極めて少ない。 


この病棟ではきちんと飲まない奴がいるのか看護師の前で飲むところを確認してもらわないといけないのだ。これが結構アホくさかったりする。慣れたけど。 




最近では患者達は「くすり箱」が来ると、その音を鋭く感知してホールに自動的に集合するのだ。まるでその光景は家畜の様でいてゾンビの様でもあり。なんというか見ていて飽きない。






1日のタイムスケジュール 


病院での1日は何もすること無いくせに短い。ダラダラと過ごしているせいだろうか。 


6時30分:起 床 

いきなり爆音で放送がかかる。「おはようございます。今日は10月11日月曜日です。」なんつってわざわざ曜日まで教えてくれる始末だ。言われなくともわかるんですけど。なんて思いながら起床。さっそくホールに集合して、体温及び血圧を測る。あと前日の便と尿の回数を所定の用紙に記入する。 

7時20分:朝 食 

朝っぱらから結構良いものを食わされる。食後は所定の用紙に主食及び副食をどれだけ食べたかを5段階で記入する。「5」は完食で数字が少ないほど残した量に反比例するというわけだ。ちなみに俺は毎日5だ。加えて食べ終わるのも誰よりも早い。というか皆動きがやたらと遅い。ちょっとシャバでは見ることのできないスピードと言えよう。まじでハエが止まるぞ。 

7時50分:朝の薬 

先ほど説明したとおり。 

9時00分:ラジオ体操 

まともにラジオ体操のスピードについて行けない奴が散見される。 

残りの午前中:フリー 

つまり自由時間。大抵寝て過ごしてしまう。最近二度寝にはまっている。マイブームなのだ。 

11時50分:昼 食 


12時30分:昼の薬 

俺は飲まない。 

13時30分〜15時00分:レクリエーション 

日や天候によって変化するが例えば天気のよい日は外に出て畑で野菜の収穫をしたり、クロッケと呼ばれるゲートボールのような低強度の運動をやる。というかさせられる。 
ちなみに我々患者が病院の外で移動する際は、全員縦一列に並ばされ、アヒル親子の如くこの列を崩さないようゆっくり前進せねばならない。どこの刑務所ですか。 
列の前後は看護師2名がガッチリ押さえており我々の逃走を未然に防いでいるのに気付きちょっと引く。車が多く通るような道はしっかり避けているところからも我々に無用な刺激を与えないようピリピリしているのが感じ取れる。ああそうか、看護師達にとっては患者を外に出すのはちょっとしたイベントなのだ。俺だったら絶対出さねぇなこいつらは。あぶねーもん俺を含めて。 
あと一般の人達から好奇の視線をこれでもかっていうほど浴びるが開き直って堂々と歩きたい。我々一同イカれてるって思われてんだろうが、まぁあながち間違いではない。 

雨の日なんかは外出させてもらえず、ホールでトランプやUNOをやったりしてマッタリ過ごす。卓球台もあるので卓球を楽しんだりもする。ちなみに俺はトランプの神経衰弱という記憶力が試されるゲームが一番気に入っている。 


18時00分:夕 食 

うまい。 

18時30分:夜の薬 

薬を飲む。 

20時30分:就寝前の薬 

俺はパス。 

21時00分:一部消灯 

この時点で部屋の照明とホールの一部の照明が消される。部屋は読書灯のみ使用可能なのがつらい。 

22時00分:完全消灯 


この時間からもう寝るしかやることがない。真っ暗で本も読めないし携帯も持ってないしタバコを吸いにも行けないので寝れないと本当に苦痛である。こんな暗闇でも天井の高感度CCDカメラはしっかり機能している点も苦痛に拍車をかける。  



あと寝てる間は部屋のドアの一部を開放しておかなければならない。数時間毎に巡回の看護師が点検に回ってくるからだ。人によっては寝ている顔に直接ライトを当ててくるのだから少し辛い。でも一度寝ちゃえばへっちゃらである。







2004年10月12日(火)午後9時22分 



今日でまる一週間が経った。なんだかたったの一週間なのだが昔からここに住んでいるかのような錯覚を覚える。 
なんと早くも退院の日が決まった。来週の火曜日、残り一週間だ。担当の医師と俺の上司で水面下において合意に行き着いたのだろう。退院後も一人で過ごして大丈夫だろうとの担当医の見解がはっきりと上司に伝わったとの事。これで職場に帰っても強引に誰かの家に泊めさせられたりすることはなさそうだ。 
ただ担当医に今一度念を押された。「というわけで今後、自傷行為及び自殺企図があっても〇〇(俺)さん自身の責任になります。(一部略)今、当該会社では自殺事案に敏感になっていて、こういう事案が起きた場合、組織としての責任問題に発展することになりかねません。しかしながら〇〇さんの場合、今後は何が起きても「病気」ということではなく単に個人の事故としてあなた自身で責任を負うことになります。」云々。 
なるほど、だから出られるようになったんだな。別に組織のせいにしたいなんて思ったことすら無いよ。何言ってんだか。 



2004年10月13日(水)午後8時32分 



残りあと一週間ということもあり、意外と期間が押してきているので少々焦る。病棟全体の様子なんかも描写しきれていないんでようやくここで紹介。 


保護室 



第3病棟には保護室と呼ばれる開かずの間が存在する。映画「ハンニバル」の如くレクター博士の気分を味わいたければ入るしかない。中をホールからチラッと見たけれどシャワーもトイレも備え付けられている。冷たそうなステンレスの壁が部屋全面を覆っており異様な雰囲気である。そして酷く暗い。よく考えたらドア越しにシャワーとトイレの便座が見えてるっておかしくね? 
一見しただけでは拘束椅子は確認できず。どこかにしまってあるだろうか。 
ここまで来たら体を張ってレポートしたいところだが、入院期間の延長は確実なので止めておく。 

ところで今日はオセロをした。看護師2名を破り患者1名も倒した。これまでのところ4戦4勝、気分が良い。その後卓球もした。ダブルスでやった。俺は一番まともな男の看護師と組んだ。病棟内総当たり戦で他の4チームをなぎ倒し全戦全勝。これもまた気分が良い。 

退屈だ。ここではもうやる事がない。「人によっては長く入れると逆に悪化する恐れがあります。」と担当医が初日に言っていたのを思い出す。 


最高の喜び(病棟にあった本に載っていたのを面白かったので勝手に転載。) 

私は科学者だ。科学者の中の化学者だ。思えば長い道のりだった。研究を続けて十余年、完璧な精神安定剤を求めてきた。既存のものは眠くなったり、だるくなったり、運動神経が鈍くなったりしてしまう。私が欲しいのは感情のみを完全に安定させるものなのだ。 
それが遂に完成した。 
さあ、いよいよ自分で人体実験してみよう。もちろん効力については自信満々だ。錠剤を口に入れた。水を飲む、ゴクン。3分も経てば効くはずだ。あと2分、1分、30秒、5、4、3、2、1、0秒。やった成功だ! 
この嬉しくないことといったら。 




2004年10月14日(木)午後8時49分 




退屈だ。暇だ。今日1人新米がやってきた。40代後半のオッサンだ。見たところまともだ。なんで来ちゃったのか。 
正直、俺の目が慣れたのか他の患者達も思っていたよりずっとまともだ。もっとすごいところだと思ってたのでガッカリだ。 
誰か暴れないかな。 




2004年10月15日(金)時刻記載無し 




今日も新人来た。博士みたいな奴だ。今日も暇。あちょー 




2004年10月16日(土)午後7時39分 




今日はレクリエーションも無かったので1日寝て過ごした。こんなことでいいのか。この調子であの戦場のような職場に復帰できるのだろうか。 
最近空を見ていない。 
あちょー 




2004年10月17日(日)午後8時41分 




あと2回寝たら退院だ。ここでの2週間はなんとものんびりとしたものだった。暇があったら昼寝して看護師に起こされたと思ったらもう昼飯、飯食った後卓球してトランプして、また昼寝して気が付いたら夜飯の時間で、一服して、マンガを読み本を読み9時には床につき。 
それもあと2日で終わりだ。後にも先にもこんな経験はできないだろう。自由は無いが心配事も無い。退屈だが苦痛は無い。一生ここに居るのと外へ出て頑張るのとではどちらが幸せだろうか最近よく考える。 
やはりここに1年も2年も居たら間違いなく職場復帰できないどころか社会復帰すらあやしい。さすがの俺ももう一度外へでて自由を手にすることを望むのだ。 



さようなら精神病院。二度と戻ってきませんから。つうか外に出たら入院保険くらい入っとこうと思うのだった。





2004年10月18日(月)午後4時57分 



いよいよ明日退院である。以前、職場の人が車で迎えに来てくれると人伝えに聞いたのだが、何時にどこでどんな車両で来るのか、また誰が来るのか全く不明であった。職場に電話しても誰も出ない。ホールにある公衆電話から上司の携帯にかけても出ない。そうこうしているうちに午後4時を過ぎてしまった。 
ここでは午後4時〜5時の間、ナースステーションで日勤と夜勤の看護師が申し送りをするので一般患者は立ち入ることができなくなってしまう。外に出て自分の携帯電話を使おうと試みるも外出するためにはナースステーションからの許可を得なければならず、そもそも携帯自体持たされていない。内部の公衆電話を使おうにも財布を看護師達が掌握しているため、全く外部と連絡がとれない状況に陥ってしまっていた。それでもヒョッコリ看護師が一人たまにやって来て、明日はお迎え何時に来ます?とか聞いてくるのだからたまらない。 
どうすれっちゅーの 

5時頃になってようやく連絡がとれた。 
昼ごろ上司と人事のトップが来るそうだ。なぜ単なる迎えに人事が動くのか疑問に思ったがどうやら今後の俺の進退について担当医と直接話をするらしい。 
元の職場に見事復帰するのか、はたまた訳のわからん部署に飛ばされるのか、そもそも転勤か?まさかクビでは… などとあらぬ考えが浮かぶ。 
つうか本人に寸前まで何も伝えないところが我が組織の恐ろしいところである。 

勝手な想像だが、このまま元の職場に復帰すると拳銃やら弾薬やら自害をするにはもってこいのモノを扱わざるを得ない。俺が再び暴挙に走り出すか分からずビビッてしまっている上の方々は俺が火器を扱うことに対し非常に敏感になっているはずだ。 
こう考えると、どうも同じ場所に戻ることは無いんじゃないかと思われるのだ。 


最後に、ちょっと前まで50名規模の部署で日々の業務を割り振ってきた人間が、今じゃ「しろくまチーム」「パンダチーム」などに割り振られて、ゲートボールやらシリトリやらして日々を過ごしている。うまくこなしたら「わぁすごいね。」って褒められる。 

人生は分からないものだ。 



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なんだか後半のやっつけ感が半端ないのだが、日記はここで終わりである。 

少々乱暴な内容に賛否両論あるだろうとは思うが(まさか炎上しねえだろうな…)、本人の精神状態を含めた当時の温度をそのまま残したつもり。それにしても人を見下しているな。 

彼はというと退院後、非公式の配置転換により静かな部署にひっそり送られることに。しかしラッキーなことに非常に面倒見の良い上司に恵まれ1年半近くのリハビリ期間を経た後再び高強度の部署へ戻って行く。 
その時も彼が持つ勤勉さは少しも失われていなかったが、多忙な業務の中においても自分の生活を守る「一線」は常に忘れないように努めるようになっていた。できないものはできんと上司に仕事を投げるようになったのもこのあたりからである。 

業務に潰され精神病院に送られた事実だけみると何とも不幸な出来事にもみえるのだが、彼の会社に廃人をリハビリさせて復帰させるほどの体力的余裕があった点では彼はある意味幸運だったのかと思う。 

彼は数年前にこの会社を辞め、日本も離れ、現在遠く離れた外国でそれなりに暮らしているらしい。まぁ死ななくて良かったな。 




したっけ。